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名残の桜

歌舞伎座さよなら公演 御名残四月大歌舞伎 第三部

*歌舞伎座  18:20~

 一、実録先代萩

 二、助六由縁江戸桜


助六、最高でした。
舞台も衣装も役者も豪華絢爛江戸桜。
これほど華やかな助六はもう二度と見られないんじゃなかろうか。

あまりに、あまりに名残惜しく。
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文(かきことば)

文(かきことば) 1

*UPLINK FACTORY  19:30~

漠然と、書かれた言葉のイメージを身体表現という別の記号へ置き換える作業なのかなと想像していた。例えば蝶々を「蝶々」と書くのか「ちょうちょう」と書くのか「てふてふ」と書くのか、或いは、漱石がよく使っていたが「難しい」を「六ツかしい」と当て字にしたり、同じことばでも表記が違うとそこから受ける印象も変わり、身体の動きも違ってくるというような。でもそういうことでもないみたい。

一言一句にまで解体された「夢十夜」。身体の動きも表情も息遣いも一定の法則をもっていそうでいなさそうでやっぱりいそうで。また小劇場という場に慣れていないせいか、そこにあるものすべてから何か意味を読み取ろうとしてしまう。壁の汚れ、床に貼られたテープ、演出家の片っぽだけ裏返しになった靴下。
すでに術作に嵌っているのか。わたしの頭は物語にとりこめられて抜け出せず、かちんこちんに固まってしまっているのか。
とにかく、目の前で起こっていることをそのまま受けとめようと、ワインで脳味噌を融かしながら見る。そうすると、どこか近くて遠い世界の女の子たちが、わたしにはわからない言葉で楽しげに話し合っているようにも見えてくる。

言葉とはなんだろう。また言葉に囚われている。どこまでも言葉がついてくる。





ゾンビの手

歌舞伎座さよなら公演 十二月大歌舞伎 昼の部

*歌舞伎座  11:00~

 一、操り三番叟

 二、新版歌祭文 野崎村

 三、新古演劇十種の内 身替座禅

 四、大江戸りびんぐでっど


無数のゾンビの手が障子を突き破った瞬間、初めて歌舞伎を観たときに舞台のセットや書き割りに感じた気持ちが懐かしくもよみがえり。すなわち「あ、ドリフだ」。
で、頭の中に盆回りの音楽が響き渡り、ドリフならここでおしまいにできるけれど舞台ではそうはいかないもの。てんこもりのおもちゃ箱をひっくり返したような楽しさに溢れていたけれど、ちらかしたおもちゃたちがきれいにおもちゃ箱へ収束される快感を欲してしまいました。
それでも。カーテンコール時のこれは歌舞伎です!の言葉に、うんうんと頷いてしまったものよ。

玉の井に顔の角度が素敵な四十郎に夜の部の大岡忠相に、三津五郎祭の様相も。

むははははは、むむははははははは

歌舞伎座さよなら公演 十二月大歌舞伎 夜の部

*歌舞伎座  16:45~


 一、双蝶々曲輪日記 引窓

 二、御名残押絵交張 雪傾城

 三、野田版 鼠小僧


まわるまわるくるくるまわる廻り舞台。そればかりが印象深く。

潜る

ザ・ダイバー

*東京芸術劇場小ホール1  19:00~

潜る、潜る、潜る。海中。子宮の奥深く。意識の下。魂の底。
女。男。母。子。面向不背の玉。宝を結ぶへその緒。
刻々と変わる表情。刻々と変わる舞台。刻々と変わる自我。
潜る。沈む。もがく。溺れる。呼吸ができない。
浮かびあがれるのか。浮かばれるのか。

男なんて絶滅してしまえと思うことが、時々ある。
人間も細胞分裂できればいいのに。

今夜は自分の血の匂いが鼻につく。
生々しさを露にしながら尚、舞台を一貫する静謐な透明感が印象的なだけに。
それが物語のリアリティであり、わたしの生理に迫ってくる。

大竹しのぶは化物。

女殺油地獄

歌舞伎座さよなら公演 六月大歌舞伎 昼の部

*歌舞伎座  11:00~

 一、正札附根元草摺
 二、双蝶々曲輪日記
 三、蝶の道行
 四、女殺油地獄

女殺油地獄


若さというのは愚かしい。しどけなく柱にもたれかかり、人の忠告にふてくされ、頭にあるのは己のことばかり。幼稚な了見のまま男の冥利だ男が立たないだ、お前が言うのは百年経ってもまだ早いようなことを口にし出すと、後はお定まりの転落の道。そんな放蕩息子与兵衛を、片岡仁左衛門一世一代にて相勤め申し候。

借金まみれの行き着く先は女殺油地獄。
与兵衛の気持ちの動きと身体の動きがぴたりと合い、こちらの心に実に自然に入ってくる。
不義になって貸してくだされとお吉ににじりよる腰のくねり。借金を断られ次第に細く鋭くなっていく目の光。殺して金を奪うしかないと脇差しを抜いたものの斬り掛かれない逡巡と怯え。そして、油まみれ血まみれになりお吉を追い回す血に酔ったかのような喘ぎ。

まばたきをするのも忘れて見入った真っ正面花道を、手足の震えをようやく止めた与兵衛が重い足音で歩んでいった。この先が与兵衛、本当の生き地獄だろう。

それにしても、油の一字がぬるぬると、薄気味悪くもなまめかしくまとわりついてはなれないこの外題の、なんと凄艶なこと。
試しに油を抜いてごらんなさい。女殺地獄。途端にありきたりで健全な見世物になってしまうから。

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鏡の中

NINAGAWA十二夜

*新橋演舞場  11:30~
 十二夜公式サイト


幕が開くと全面の鏡が客席をうつしだす。驚きの声があがると同時に舞台は満開の桜。鏡の外から内側へ、声は感嘆の吐息へと変わる。縦糸横糸絡まった恋のとりかへばや物語の始まりだ。

一昨年の歌舞伎座公演に比べると展開が早くなりドラマがわかりやすくなった反面、お気に入りのシーンまで短縮されてしまった。むむむ。

例えば男に化けた琵琶姫と、琵琶姫が密かに慕う左大臣のやり取り。男性が女性を演じる女形。その女形が芝居の中で男へ姿を変え、若衆姿でありながら恋する殿御の前ではつい女に戻ってしまうという二重三重の構造が面白く、ボリュームのつまみを上げ下げするように男と女を往来する菊之助がよかったのに、今回は随分あっさりとした印象。
或いは亀治郎演じる麻阿の匍匐前進。移動距離が短い。どうせなら舞台の端から端までずずずりっとたっぷり願いたい。だってこの匍匐前進、大好きなんだもん。
テキーラ!もなくなっていたなあ。
わたしの目にとまるのはいつも幹より枝葉なのか。むむむ。

風景は次々と変わる。荒れ狂う嵐の大海原、月夜の青い光、白百合の原を渡る赤い橋。本当に美しく幻想的で、なんて綺麗なんだろうと胸がふくれ上がり悲しくもない場面で涙がにじんで困った。どこにいても人間という生き物は変わらないんだなと思ったらくつくつおかしくなってまた困った。

男と女、嘘と誠、夢と現実、東と西、シェークスピアと歌舞伎…。鏡に浮かび上がりくるりくるりと反転する表裏一体の二つの世界二つの顔。
鏡にうつった自分の姿を見て笑っている。

歌舞伎座さよなら公演 五月大歌舞伎 昼の部

*歌舞伎座 11:00~

 一、歌舞伎十八番の内 暫

 二、寿猩々 手習子

 三、盲長屋梅加賀鳶 
   序幕 二幕目 三幕目 大詰

 四、戻駕色相肩


久しぶりの歌舞伎座。見上げただけで胸が高鳴るのはいつものこと、来年はもうこの建物での五月公演はないんだと思いちょっぴりうるっときてしまった。

常磐津舞踊の戻駕。松緑、菊之助の踊りが楽しい。踊りの良し悪しは素人なんでわからないものの、動きの一つ一つが音によく乗っていてとても綺麗だし見ていて飽きない。舞踊劇って以前は全く興味がなかったのに。三味線の影響もあるのかしらん。

歌舞伎十八番の暫。頭の横に大きく張り出した車鬢に力強い隈取り、成田家の定紋を染め抜いた広げれば3~4mもあろうかという衣装と、いつ見てもすごい造形。海老蔵の権五郎は目ン玉ぎょんぎょろりでまさに錦絵そのもの。声がね…。いっそ喋らず動かずいてくれれば…。

暫


歌舞伎座の入り口にはカウントダウンの電光掲示板が設置されていた。あと362日。
権五郎が両腕を広げしばらく、しばらく~と止めてもダメ、なんだろうなあ。

消える歌舞伎座

歌舞伎座の建て替え計画案発表。

歌舞伎座計画案

唖然。ひどい。これはひどい。
朝日新聞の記事によると、

―松竹は05年、新劇場の外観について、ビルを建てても現在の歌舞伎座の原型となった太平洋戦争前の建物を復元すると説明していた。だが、計画に携わった伊藤滋・早大特命教授らによると、事前調整段階で石原知事から「銭湯みたいで好きじゃない」「オペラ座のようにしたほうがいい」などと注文がついた。―

慎太郎、また余計なことを…。
銭湯結構!
歌舞伎座の正面に立ち建物や幟を見上げるだけで気分が高揚し、その高まりのまま歌舞伎の世界にすっと入っていける。
そんな劇場の外観、空間丸ごと含めての幸せな歌舞伎体験は、背中にビル背負ったガラス張りの建物では期待薄。


歌舞伎座


もう一度考え直してくれないものだろうか。
なんとか芝居小屋の雰囲気を残してほしい。

初物

ロッシーニ・オペラ・フェスティバル「マホメット2世」

*Bunkamura オーチャードホール  18:00~

お誘いいただいて初めてのオペラ。
初めてというのは入り口が肝腎で、敷居が高いんじゃないかとか、ドアをぴしゃっと閉められるんじゃないかとか余計な心配をしがちなので、敢えてまっさらさらの状態で臨んでみる。
これがよかった。
先日のプロレスといい、人間って未知のものに出会うと自分の知っているものに引き寄せて考えるのね。
オペラと歌舞伎って意外と共通点が多いというのが第一印象。
生演奏と芝居の融合やメインキャストの際立たせ方、物語の進み具合など。
装飾的な歌唱は義太夫にも通じそうだし、アリアはさしずめ決め台詞。

では違いはというと、歌を歌う、歌わないというあまりにも当然すぎる違いにあらためて気付く。
言葉も感情も全て歌で表され、また歌うことでそれ以外の肉体的表現がかなり制限されるし、オペラって「歌」なんだなあと今さらの感慨。
あと、オペラにも花道やせり出しや回り舞台があればもっと面白いのになんて不埒な想像も(わたしが無知なだけでそういう舞台もあるのかもしれないけど)。

とても楽しい経験に恵まれて感謝。
機会があったらまた是非観たいです>Jさんヨロシク。

終演後、ちょっと癖のあるオーストラリアワインと共にカンガルー食べ比べ。旨。
これも初めての経験。ついついワインがすすんで深夜にぴょこたんと帰宅。
 
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